昭和43年3月7日 朝の御理解


 【   】の方に巡教された時に、支那の【   】の偉い方が、その話を聞いて非常にあの感動したと、そして「金光教祖っていう方は、あなたがおっしゃる様に、その偉い人ですか」まあいうなら、どんなに偉い人ですか、とこう質問を受けられた。その時にあの、先生が答えとられます、ね。もし私達がですね、仏教的にいうならばですね、百ぺん千べん生まれ変わったとても、とても教祖の神様の足元にも及ばないち、とこういう事をいうておられる。という程に偉いんだと、ま、いった。「はあ、そんなに偉い人ですか」というて、その来たという話を私は聞いた事があります。教祖様っていうお方はどんなに偉いお方か。それを例えば、その仏教風な言葉を借りて言うならね、生まれ変わりといった様な事になる。とても百ぺん千べん生まれ変わったとてもです、教祖の神様の、いうなら足元にも及ぶ事じゃない程に、偉いお方じゃとこういう。「はあ、そういう偉いお方ですか」と、ね。とても千年万年たったからというて、こういう人がまたと現れなさるはずはない。それを、伝記なんかを拝聴致しておりますと、その教祖の神様に、いわば現れる天地の親神様の、あの感動という感動、ね。もう、こういう氏子かつてまだ見た事がなかった、という様に、その感動しておられますですね。ですからそういう素晴らしい教祖の神様の教えられた事ですからね、その御教えの広さ、深さというものは、とてもとても私共の、いわば勉強ですね、教学的なものでわかる様な事は、まあ、絶対にあり得ないです、ね。そこで、私共はここに思わせて頂く事はですね、その教祖様の、そういう大変な御信心の一部分をですね、本気で行じられる、本気でそれを自分のものにしようと精進されて、修行されたいうなら、先達、いわゆる先輩の先生方の御信心に神習わしてもらうという事は、身近に教祖の神様の御信心を頂くという事になるのですよ。そこでお互いが、やっぱり良い師匠が必要だという事になるのです、ね。でないとあまりにも偉大である、あまりにも深い、大きいその御教えを、かく行じた、かくおかげを受けて来たという、お徳を受けて来たという、例えば、先生方の御信心を頂くというか、神習わせて頂くという事が、だから一番てやすう身近になって来るわけなんです、ね。
 ここに神愛会当時のこうりょうでありました、福岡の初代「ばかとあほうで道を開け」とおっしゃる御教えが、久留米の初代が四神様に頂かれたという「信心辛抱さえをしておれば、もの事そなわぬ事ない」とおっしゃる様な御教えが、または私の師匠であるところの、善導寺の師匠が頂いておられる御教えは「こりを積ますな。こりを積むな。身を慎め」という様な、あの御教えを頂いておられます。ですから、そういう様な、例えばもうはっきりとですね、もうふかいもなからなければ、まあ、ふかいがないと言っちゃあいけないでしょうけれども、もう言葉に表れておる、ね。「ばかとあほう」になるとか「信心辛抱する」とか、これだけでも、実はいうたら深いんですけれども、だいたいそうであるわけなんです、ね。教祖の御教えなんか、そんなふうには出て来てないわけなんですよね。ほんとに、そのもう簡単に、例えば読めば簡単な事の様にあって、実をいうたら、その深さといったら、もう限りがない程ね。だから、そういう様な例えば信心をです、私共が内容として、その、まあいうなら、私共の先達である先生達の信心を一応マスタ-する。私は今日それを思うのですがね。甘木の初代が教えておられます「我よしと思う心を技として、夜ごと日ごとにたたかいてゆけ」と。先生のこれは教歌です、ね。私共そういう様な御教えに触れた時に、まあ、感じました事はですね、もう信心はこれに極まった、そんな気が致しましたですね。いわゆる一期一会でありますね。私の心の中にね、甘木のそうした先生のですね、御信心の中心とも思われるそういう、その御教えがですね「我よしと思う心を技として、夜ごと日ごとに戦いてゆけ」もう信心はここに極まっておる。これだ、私は思い込まして頂いた、ね。一期一会なのです。今にそれは続いておる、ね。子供のせいにもしない。あの人のせいにもしない。どういう様な問題があっても、どうであってもね、子供が言う事を聞かない。どうして言う事を聞かんかというのではなく、ね、結局はですね、子供が言う事を聞かんのは、私が親の私が悪いのだと。こういうふうに難儀になってきたという事も、例えば誰がこうしたから、かれがこうしたから、時代のせいだといった様なものではなくて、結局はこういう難儀をしなければならないもとは私自身にあるのだと。その為に自分というものを本気で反省する。本気で自分ものを知る。そこからですね、その戦いが始まる。自分の心の中に「我、戦いて行けと、ね。勤め励んで行くという事がです、その内容が、なら、私の場合どういう事になったかというと「ばかとあほうで道を開け」という事になった。または、それこそ泣く泣く辛抱しいしいに、信心辛抱しぬかして頂いたり、ね、または「こりを積ますな、こりを積むな。身を慎め」といった様な事に本気で取り組んで来た。結局「我よしと思う心を技として、夜ごと日ごとに戦いて行け」ね。こういう御教えに触れた時に、私の心の中に一期一会を得た、ね。もう、もうほんとに、もう信心はこれだ、これだと自分の心の中にですね、いうなら、今天地の開ける音を聞いて目が覚めた。そして、その戦いて行け、励んで行けと、勤めて行けと。その事をどういうふうに励み、どういうふうに勤めたかというとね、ここは、ばかとあほうになっとかなきゃならん。ばかとあほうで道を開かなきゃならんと、ばかとあほうになる事に精進させて頂いた。ここは、ひとつ辛抱さしてもらわな、という時、それこそ泣く泣く、でもそこんところを辛抱しぬかして頂いた。金光様におすがりしぬかして頂いた。「金光様、金光様」で辛抱しぬかして頂いた、ね。成程、ばかとあほうで道がだんだん開けて来た。成程、信心辛抱させて頂いて、その後に生まれて来るものはこの喜びであった。この有難いものであった、ね。まあ私はその中でも一番難しいのは一番最後ね、「こりを積ますな、こりを積むな。身を慎め」という事である。もうこれは今でももう、どうというふうにでけた事はないけれども、特に出来ない難しい。第一、難しい事はこりを積ませないという事が難しい、ね。もうこりはつましゃならん、だまっとく。だま-って、もうものいようると、こりつますと思うてだまっとく。ところが腹立てちゃおらんじゃろかとだまってから、ぶ-としとると、ほんに言うて相手がこりを積む。なら、もうこれしょんないこっちゃんね。それこそ自分方に蔵を建てたりすると、建てた事が隣のもんども、蔵を建てとんに隣の人は腹立てとる。もうこればっかりはしょうがないですな-。とても、わたしゃほんとに【  】の初代はもうほんとに素晴らしい御教えにとけこんどるもんだと思うですばい。まあ、いっち難しいのはね、あの最後の「身を慎め」というところが、まあ大変に難しい。慎んだ様であっても、いっちょん慎んどらん、ね。そこでそんなかの真ん中にあるところのね、「こりを積むな」という事、もうこれだけに、だから私は一生懸命かけておる。この御教えにね。ばかといわれても、あほうといわれても、例え笑われてもね、まあいうならば、憎い【   】をされてもね、それで腹を立てちゃあならん。それでこりを積んじゃあならん。自分自身がこりを積まんという事においては一生懸命、ここんところだけは漸くこう、でけて来ておる様に思う。善導寺の先生は大変な御教えに取り組まれたもんだと思う。そういう大変な事ですよ、ね。先程から私が申します様に、教祖の神様のもう御信心のほんの一部だという事なんですね。「金光教祖という方は、そんなに偉い方ですか、どんなに偉い方ですか」もう説明のしようがない。そうですなあ、私共がです、百ぺん千べん生まれ変わったからとて、とても教祖の足元に及ばん程に偉いお方であったという事。そういう偉いお方が説いてくださった御教えですから、そりゃあ難しい事が当たり前なんです、ね。それを私共がまた百年、千年かかってその難しい、その御教えに取り組ませて頂いてです、ね、けれども、ここにひとつの明らかにされておるもの、実証されておるもの、それは例えば、私共でいうならば小倉のね、桂先生が、福岡の吉木先生が、久留米の石橋先生が、三井教会のあらまき初代の親先生が、または近く甘木の安武松太郎先生がですね、その一部であると思われる、その一部の信心を自分のものになさって、そしてああいう御ひれいと、ああいうおかげを、またああいう身に徳を受けておられるという、これはもう、も、身近にそこにあるわけなんです。だから先生が本気で取り組まれたその御教えに、私共が取り組む事によって、先生の信心がわかる様になる。また、そこに先生が受けられたであろう様なおかげを受ける事が出来るのである、ね。そういう信心がひととおり、こうマスタ-されてです、そして私の信心がある、ね。
 今日の御理解は、その何を皆さんに、あの解らせ様としての御理解であろうか。成程、教祖の神様の御信心というかね、教祖の神様というお人柄というかね、これはもう、兎に角私共では想像もつかぬ程に、まあいうなら素晴らしいお方であったという事なんです。千年万年以上たったからというてです、こういう人がまたと現れなさるとは思えないという方なんです。ですから、その御教えを私共が、例えば、頂くという事は、とてもとても大変な事だけれども、ね、それをね、一部を例えば頂かれてです、その信心の一部を頂かれて、それでいてこれだけの御ひれいとこれだけのお徳とこれだけのおかげをです、実際に見せて来られた、私共の身近な先達の先生方にね、教えられた。成程、神愛会のこうりょうになったはずだと、私は思うです、ね。どうでしょうか、皆さんね、最近その一期一会という言葉をよく使います。役員の先生がこの頃、善導寺の【  】の時におっしゃったお言葉です。素晴らしいお言葉だとこう思うね。それが私にはね、甘木の先生の「我よしと思う心を技として、夜ごと日ごとに戦いて行け」とおっしゃる、ね。もう信心はここに極まったと、私はそう感じたんですね。その御教えを頂いて、もうこれだ、これだと思うたんです。ここにですね、私の助かりがあるんです、ね。【】じゃ、人のせいじゃ、この人のせいじゃ。
 昨日、私はある、あの同じ会社に勤めておる、もうその人の顔ば見よるごともなかっというわけなんです。もうあれがおるなら会社も辞めごたる。やっぱ人間の中にはありますもんね。も本当に、あの虫のすかん人が、ところがそれではですね、これ自身が助かっていない。その会社ば辞めたからって他の会社に移ったら、またそこにおるかもしれんもんね、そげん人が。そしたらですね、もうほんとに、その難儀な事だなと私は思いました。話をいろいろ詳しく聞いたら、ところがね、歯ブラシを頂くんですね。御神眼に。はあ歯ブラシといやあ【   】やままになる。自分がおかげを頂く為に、磨かして頂く材料として頂けっていう事ね。だから、それともう顔も合わせとうなか、見るごともなか、それと話合いもしょうごとなかけれどもです、それが自分がほんとにおかげを頂く為のね、自分がおかげを頂きたいと思うとる、も、この事ままになるとええと思うとる。その為の材料であると思わして頂いたらね、その人にお礼は言えんでも、神様にお礼が言える、ね
。「我よしと思う心を技として、夜ごと日ごとに戦いて行け」信心はこれだ、これに極まる。これは私の事ですよ。皆さん、ね。私の、いわば一期一会です、ね。そして、その内容としてです、ね、戦いて行けという事。それをそのまま励んで行けという事。勤めて行けという事。場合によって勤めたり励んだりする事が、ただいま申します様に、もういやでいやでたまらんという事。この事ばっかりがと思う。けれどもその事を自分が本当に、それをぬいたら、事ままならん様になる。もう自分がそれをぬきにしたらね、だからその事を、自分が本当にままになるためのね、研く材料とさしてもろうたらね、お礼が言える。そして、ままになったあかつきには、あなたのおかげでという事になって来るんですよ、ね。戦こうて行きよる事ですよ。励んで行きよる事ですよ、ね。戦こうて行く事、励んで行く事です。ならね、ここは本気でひとつ【   】ならなきゃならんというところがあるっちゅう。その励んで行くその中にです、もう辛抱ができんという事がある、ね。辛抱がでけんからという、そこから辛抱するが本当の辛抱なんです、と。泣く泣くそこを「金光様、金光様」で辛抱しぬかして頂いたら、この喜びはどこから湧いて来るかわからん。本当に神様が「よう辛抱してくれた」と言うて喜びを送って下さるんじゃろと思われる様に、心の中に辛抱しぬいた者でなきゃわからん喜びが頂ける、ね。いいですか、一期一会、ね。こりゃあ、私の一期一会、そしてその内容としてです、福岡が、久留米が、三井教会の初代がね、頂かれた信心を私一生懸命取り組んでいった、ね。そこが勤めて行く所であり、励んで行く所である。それはもうほんの、私の身近にあるものなんだ。教祖の神様のその教えられた、もう大変な、その深い広いというものじゃない、すぐそこにあるもの、そしてすぐそこにひれいを実証しておられる。おかげを実証して現しておられる。だから、これをまず私共のものにしなければです、私共の信心というものはあり得ない、ね。そして、なら、これは完璧という事までに頂けておらんにしてもです、ね、励んで行く、勤めて行くという事の中に、辛抱もさしてもらう、ばかとあほうにならしてもらう、ね。そして、いわゆる「こりを積ますな、こりを積むな、身を慎め」という事にも一生懸命、その中に私は、この御教えは大変難しい、とこう言ったですね。だからその真ん中の所だけの「こりを積むな」というところには一生懸命、そして、おかげでこれはできる様になった言う様な感じである。自分がこりを積まん。どんな事があったっちゃ、ね、そしてこれからの私が精進しなければならない所は、いわゆる最後の「身を慎め」という所、これもなかなか難しい、ね。私はお食事をさして頂きながら、ようあくびが出る。もうこりゃあ、自分が本当に謹んどらん証拠だと思うです、ね。厳密にいうと、あくび一つでもそこでもですね、本当に慎みの足らん自分である事を思わしてもらう。
 そうして皆さん、ここで稽古なさっておる私の信心は、あなた方が見られた通り、聞かれた通りなのである、ね。それをまた皆さんが励んで行かなきゃならん。またそれを戦い取って行かなければならん、ね。そうして、例えば教祖の神様の御信心をです、本当に小さなものであるけれども、教祖の神様の御信心を自分のものにして行く事ができる。成程一足飛びには行かない事がわかります、ね。その中の一つづつがです、自分の者になって行く精進努力ね、兎に角、そのどう言うですかね、信心辛抱が足りない。本気でばかとあほうになろうという気持ちがない。もうこのくらいまではばかになっとられるばってん、もうこれから以上はばかになられん、といった様な事ではいけない。道は開けない、ね。皆さんが辛抱しとらにゃあ、けれどもですね、もう辛抱がでけんという時からが辛抱なんです、ね。そこで辛抱できなければ、神様が与えて下さるどこからこの喜びが湧いて来るか、といった様な喜びにゃあ触れられない、ね。信心辛抱さえをしとれば、物事整わん事ない、というおかげになって来ない。その辛抱がでけんから整わんでしょうが。中途半端な【   】じゃから道が開けんでしょうが、ね。まあ今日の御理解どこを焦点にしてよいかわからない様な御理解でしたえどもですね、私共のすぐ身近にある、いわゆる先輩、または先達の先生方の御信心、それをまず私共が一応頂かしてもらう。本気で、ね。そして、またこれは、合楽独特のものといった様なものを皆さんの中に【   】私が一期一会と言っておる、ね、いわゆる「我よしと思う心」というものをです、もう信心はここに極まったと、皆さんもやっぱ思わにゃいかん、ね。そして、その内容としての、ただいま申しました様な、いわゆる信心をです、内容としてその上にまた、なおかつ私がそこから頂いておるところの、そういう信心をひとつふんまえてから、伸びておるというか、育って来た信心というものがあるはずだ、ね。いわゆる合楽スタイルなんです、ね。それをまた皆さんが身につけられて、そして、それから先、また皆さんの信心また問題になって来ると思う、ね。頂いても、頂いても尽きない。汲んでも、汲んでも尽きない程のおかげ。私、今御祈念中に、ちょうどここのお手洗いのあのお水、ひしゃくがあるでしょ、あの浅いひしゃくをですね、持ってるんですよ。これはまあ、あのある事を願って、そしたら例えば、これは取り次ぎというかね、ここに例えば水を求めて来ておる人がある。また求めておる人がある。もう喉が乾いてたまらんて言っておる人がある。その水のありかを知っての私達なのだ、ね。ですから、それをひしゃくに汲んで持って行ってやる、ね。こう持って行ってやるわけなんです。ところがね、もう、その持って行ってやる具合が、もう所作ばっかり作って、こうやって持って行きよるわけ、じゃけ所作ばっかり作りょうるじゃけ、持って行きょうる間にちゃ-と溢れてしまう。ひしゃくの中に水が入っとらん、ね。何も与えるものがない、ね。私はもうそれこれでは、やはり本当のお取り次ぎというかね、もう信奉者全部が取り次ぎ者とこう言われとりますね。自分達の信心を取り次がにゃあいかん。そしたら今度は一人は今度は、そのまあお芝居でいうなら、やしおかいわふじちゅうた様な感じで、ひしゃくをもったまま、こうやって水はいっぱい入れてあるばってん、こげんしとる。動かん。ここまで来たならば、もうしょっちゅう意地の悪い顔おるわけなんですよね。先生方の中にもういうのがあるんですよ。ここまでわからなければ、おかげは取り次がんという感じの先生があるんです、ね。「も、あんた何年信心しよるの。ここまで来なければおかげはやらん」っていった様な感じ、ね。ですから本当にこれをですね、結局、不動の信念、もう動かない。こう所作を作らない。不動の形です。じっとそれを持って行って伸ばせてやられる親切が必要なんです、ね。そりゃあもうわかっとるね。もう真っ直ぐ持って、それをこう与えてやられる親切が必要なんです、ね。ならそういうおかげを、これからいよいよ頂いて行かなければならん。合楽の皆さんはね、今度の十日のつだこうたろう先生の公開講演なんかもそうなんです、ね。連れて行ってくれというなら連れて行ってやろうではいかんのですよ。というて、どうでもあなたもおいでなさい、というものがです、ただ自分のめんつや所作ばっかり作っとったんじゃ、何にも与えるものがないっちゃ、ね。為には、やはり自分達めいめいがですね、今日の御理解のどこなりとも、ひとつしっかり頂いてからね、一つのかっこたる信心とね、ほどの信念といった様なものがですね、昨日の夜の御理解に「金剛力」という事頂いたね。こりゃあ「金剛ふえ」という言葉がある。あのそういう事だと思う。「金剛力」とは絶対信という事だと思う。「金剛ふえ」っていうのは、どういう事があっても、教祖は驚いちゃならんとおっしゃる様な事ね。自分の信念が壊れてしまう様な事があっちゃならないという事だとね。「金剛力」と。そういう様な、その宗教を持ってしなければ頂けない様な心がですね、育って行くという事もやはり、私はね、教祖の神様のその一部を頂いて、ほんとにそういう金剛ふえの力とか、金剛力とかという力を受けられた先生方がね、目の当りにある。そういう信心を神習わして頂いて、自分達のものに頂いて行かねばならん、といった様な事を思うです、ね。どうぞ、とりとめのない様に、きりがない程に今日の御理解は私は感じるのですけれどもね。その中から皆さんどうぞ一部でも頂いて、その自分のものにしておいでられなければいけないね。自分達のおかげが崩れようるでしょうが。道が開きょうらんでしょうが、ね。それはね、結局、あなた方の、いわば神様を信じとるごとあるけれども、その信じておる力があまりにも弱い、あまりにも壊れるね。すぐ迷う、ね。何年信心しよりゃ、そげんいつまででん、いわゆる心配の方ばっかり打ち込んで、信心に打ち込もうとしないのかという事、ね。
 教祖の神様の御信心の偉大さといった様な事が今日の御理解でわかりましたですね。今日もだから、それに取り組むという事はなかなかですけれども、身近なひとつ信心に取り組まして頂いて、おかげ頂いて行きたいと思うですね。どうぞ。